今では名前も咄嗟に思い出せないけれど、バブルの頃には超有名人で、「地上げの帝王」と呼ばれた男の愛人を振り出しに、麻布キャンティの御曹司と結婚。その後夫とは別居生活を続けている、通称アッコちゃんなる、実在の女性に取材した小説である。
取材のために料亭、高級レストラン等々でヒロイン、アッコちゃんと会い、その話に耳を傾ける作者が時々顔をのぞかせる。それは、この小説が、詳細な取材を通じて、ヒロインの実像に迫るものである、と読者にアピールする装置として機能している。
「ああ、そういえば、あの頃、週刊誌に載っていた」と、自らの若き日を懐かしむ中高年者や、中高生だった頃、小耳に挟んだ事件を思い起こす若い読者の姿が思い浮かぶ。読者としては、ほとんど小説というより、ドキュメントを読むつもりになる。
ヒロイン、アッコちゃんは、小説中で、自ら権力や経済力を持つ男性を操作したいと考えたことなどない、としばしば語る。バブル期に、多くの女性が思い描くファンタジーをすべて満たすような生活をしていたのも、決して自ら望んでのことではなかったと。彼女は、自分自身の不快を回避し、快を求めただけだった。言い換えれば、自分自身の満足以外に、求めるべき対象が外部に存在しなかったのである。だからこそ、彼女は権力や並外れた経済力を持つ男たちの欲望の対象であり続けた。外部の対象を求めない人間ほど、他者からすれば、熱望すべき対象はない。
際限なく熱情、富、時間を吸い込むブラックホールのごとき女性は、それぞれの男が自らの思い描く「いい女」のイメージを容易に身にまとう、いや男のほうで、「この女こそ自分が求めていた、いい女だ」と思い込むのである。
とすれば、彼女の実像というのは、実は、そのまま彼女を巡る男たちの描いた虚像に違いない。しかし、彼女の側からしても、自らの虚像が可能にした生活が自身の実人生なのである。
だから、この小説は、やっぱりドキュメントなんかではない。虚像と実像の間を揺れ動く、取材小説なのである。
ところで、女性の欲望を描き続けてきた林真理子が、何ゆえに、今この小説を書いたのだろうか。男たちと同様、アッコちゃんに今もってバブリーな、自らの欲望を映し出し、ブラックホールに吸い込まれる女性読者の反応が見たかったのではあるまいか。
アッコちゃんの時代、林真理子著、新潮社、2005年8月刊、1500円(税別)
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